前回見たように、量子力学では「通ったかどうか」という問い自体が成立しない場合がある。だがそれでも、観測された結果には強い相関が現れる。いったいそれは、何によって決まっているのか?
量子力学の背後に、私たちの知らない「隠れた変数」があるという考えは、かつてアインシュタインらによって真剣に検討された。だが現在では、「そのような変数は否定された」と語られることも多い。
果たして、それは本当に正しいのか。Bellの定理を手がかりに、改めて考えてみよう。
Bellの定理とCHSH型の構成
舞台はこうだ。アリスとボブのふたりが、それぞれ空間的に離れた場所で粒子を1つずつ受け取る。そして、事前に決められたルールに従って測定を行う。
彼らはそれぞれ2通りの測定方法を持っている。アリスは A = 0 または A = 1、ボブは B = 0 または B = 1 のどちらかの方法で測定する。どちらを使うかは、その都度ランダムに決まる。つまり、アリスやボブ自身が測定方法を選ぶのではなく、設定が外部から無作為に割り当てられる。
測定の結果は +1 または −1 のいずれかだ。
彼らが従うルールはこうだ:
- A×B = 0 のときは、測定結果を一致させたい
- A×B = 1 のときは、不一致にしたい
ただし、測定が始まった後に連絡を取り合うことは禁止されている。そのため、アリスとボブは測定の前に相談して戦略を決め、どの設定に対してどのように応答するかをあらかじめ決めておくしかない。
こうして設定ごとの応答を固定しておくという前提──それが隠れた変数モデルである。
この条件下では、どんな戦略を選んでも成功率は最大で3/4、すなわち75%にとどまる。これがCHSH型Bell不等式の主張だ。
量子力学はこの限界を超える
ところが、量子力学ではこのルールに対する成功率が約85%に達する。たとえばアリスとボブが共有する粒子がエンタングルしており、それぞれ以下のようなスピンの測定軸を用いるとしよう:
- アリス A=0:Z軸(縦方向)
- アリス A=1:X軸(横方向)
- ボブ B=0:Z+Xの中間軸(+45度)
- ボブ B=1:Z−Xの中間軸(−45度)
このとき、A×B = 0 の場合に測定結果が一致する確率、および A×B = 1 の場合に不一致になる確率は、ともに約85%に達する。これは明らかにBell不等式の限界を超えており、実験的にも確認されている。
Bellの定理が示すもの
では、このとき何が否定されたのか?
Bellの定理は、以下の二つの仮定を前提としている:
- 実在性:測定される前から物理量が定まっている(つまり、ある種の隠れた変数が存在する)
- 局所性:ある測定の結果が、空間的に離れた別の測定に即座に影響しない
この2つが両方とも成り立つなら、どんな隠れた変数モデルでも成功率は75%を超えることはない。しかし量子力学の予測も実験結果も85%に達している。したがって、少なくともこの2つのうちどちらかは捨てなければならない。
隠れた変数モデルは本当に否定されたのか?
この結果をもって「隠れた変数は否定された」とよく言われる。だが、それは「どのような隠れた変数」が否定されたのかをはっきりさせないまま話が進んでいる。
たとえば、Bellの定理が否定するのは、測定の設定に対してあらかじめ固定された応答を持ち、しかも測定の影響が瞬時に伝わらないようなモデルである。いわば「局所かつ設定独立」な隠れた変数モデルに限られる。
一方で、「非局所的な影響」を認めるなら、隠れた変数モデルは成立しうる。たとえばボーム理論(パイロット波理論)では、測定結果はあらかじめ決まっているが、空間的に離れた測定が即座に影響を与える構造を持っている。
また、そもそも応答があらかじめ固定されていないような隠れた変数モデルを考えることはできないのか? という疑問もある。測定のたびに新たに応答を決めるようなモデル──たとえば量子測定過程を含めた動的なモデル──も理論的にはありうるが、それはBellの定理とは別の枠組みで評価されるべきものであり、現時点では有力な具体例があるとは言いがたい。
超決定論という「逃げ道」
さらにもうひとつの選択肢がある。それが超決定論だ。
Bellの定理では、アリスやボブの測定設定は「自由に選ばれる」とされている。しかしその自由が幻想だったとしたらどうか。どの測定設定が選ばれるか、どのタイミングで選択されるか──そうした要素も、実は粒子が作られた時点ですでに決まっていた。そう考えるのが超決定論である。
この立場では、測定設定と粒子の状態が共通の原因によって結びついており、それによって量子力学の予測する相関が再現される。
このようにすれば、局所性も実在性も守ったまま、Bell不等式の破れを説明できる。
もっともこの考え方は、「測定設定は実験者の自由意志で選ばれる」という科学的手続きの前提そのものを否定するため、きわめて受け入れにくい。だが論理的には否定できず、現時点では排除する根拠もない。
結論:何が否定され、何が残ったのか
Bellの定理が否定したのは、あくまで「局所的かつ設定独立な」隠れた変数モデルである。非局所的な構成や、測定の自由を疑うような構成は、理論的には排除されていない。
したがって「隠れた変数は否定された」と断言するには、その射程を限定しなければならない。否定されたのは、特定の構造を持つ隠れた変数モデルだけであり、「隠れた変数」という発想そのものではない。
Bellの定理は、量子力学の「不思議な相関」を明示しただけでなく、それがどれほど我々の前提──局所性、自由意志、因果構造──と衝突するかを突きつけている。
では、そうした相関を理論はどのように扱っているのか。そもそも、量子力学とはどこまで観測を記述できる理論なのか。その根本的な制限として知られるのが、不確定性原理である。
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