ここまでの議論では、「粒子がどちらを通ったか」という情報が干渉の有無を左右すること、そしてその情報が“誰にも知られていなくても”影響することを見てきた。
二重スリットに偏光を加えた構成や量子消しゴムの実験では、「情報があるかどうか」が干渉の成立に直結していた。観測された痕跡が残っていれば干渉は壊れ、記録されていなければ干渉は回復する。観測とは、見ること以上に“情報が残ること”を意味していた。
だが、ここで本質的な疑問が浮かび上がる。情報があったかどうかは、誰にとってのことなのか?
ある観測者にとっては情報が確定していたとして、別の観測者にはそれがまだ「決まっていなかった」とされる状況が、量子力学の中では本当にありうるのか?
この問いを考える上でよく取り上げられるのが、「シュレーディンガーの猫」と「ウィグナーの友人」と呼ばれる二つの思考実験だ。
意識のある存在が中にいたら、状態は決まっていたことになるのか?
シュレーディンガーの猫の構成では、放射性原子の崩壊と連動して毒ガスが出る仕掛けと猫を箱に入れることで、「生きている状態」と「死んでいる状態」が重ね合わさったまま存在すると語られることがある。だが、猫には意識があり、箱の中で実際に何が起きているかを知っていたはずだ。それでも外から見ると、「状態はまだ決まっていなかった」と量子力学は述べているように見える。
今回扱う「ウィグナーの友人」は、このズレを明示的に構成し、誰にとって状態が決まったと言えるのかを正面から問う仕組みになっている。

ウィグナーの友人:観測者を量子系の“中に”置くという構成
構成はこうだ。ある閉じられた部屋の中に観測者(ウィグナーの友人)を置き、その中で量子粒子を測定させる。粒子は「スピン」と呼ばれる性質を持っていて、それを測定すると「上」か「下」のどちらかの結果が得られる。
観測される前の状態は、「上」と「下」のどちらかに決まっているのではなく、両方が重ね合わさった状態として存在している。観測によってはじめて、そのどちらかに結果が定まる。
友人は粒子を観測し、結果を測定装置に記録し、自分の意識でもそれを把握する。
だがウィグナーは部屋の外にいて、その中全体──粒子、測定装置、友人──をひとまとまりの量子系として扱っている。箱が閉じられていて情報が外に漏れていない以上、その中で何が起きたかは物理的には確定しておらず、「友人が上を見た状態」と「下を見た状態」が重ね合わさっていると考えるほかない。
友人は観測を済ませたと思っているが、ウィグナーから見れば、その全体がまだ観測前のような状態である。いったい「観測された」というのは、誰にとっての出来事なのか?
「観測された」と信じているのに、なぜ干渉が成立するのか?
もしウィグナーが、その量子系に対して干渉測定を行い、それが成功したとしよう。干渉が成立したということは、友人が「上を見た状態」と「下を見た状態」の重ね合わせが、まだ壊れていなかったことを意味する。つまり物理的には、「観測の結果はまだ決まっていなかった」としか言いようがない。
ところが、友人は結果を確かに見ている。測定装置にも記録があり、自分でもそれを覚えている(と感じている)。その「観測されたはずの出来事」が、干渉があったという事実によって否定されてしまう。
干渉が成立するためには、測定結果が外部に漏れていなかったことが必要になる。ほんのわずかな情報の痕跡でも、環境に伝われば干渉は壊れる。だから、干渉があったというのなら、そのとき記録や記憶が環境に影響を与えていなかったと解釈するしかない。
記録して、でも情報は漏らさない──そんなことが可能なのか?
しかし、観測の結果が装置に記録され、友人の脳内にも保持されていたとして、その情報がまったく環境に漏れなかったなどということが、現実に可能なのか?
通常、記録を残すということは、環境に対して何らかの影響を与えることを意味する。測定装置が作動すれば熱が出るし、神経が活動すれば電磁波が生じる。どんなに小さな痕跡でも、それがあれば干渉は壊れてしまう。だから、観測も記録もあったが、情報は漏れなかったという状態を実現するのは、ほとんど不可能に近い。
結果として、干渉があったということは、そのとき系が環境と完全に切り離されていたとみなすしかない。つまり、「記録や観測が実際にあった」という主張は、その物理的状況と両立しないことになる。
作れていないから、パラドックスも起きていない
理論の上では、もし本当に「記録があって、しかも情報は漏れていない」ような状態を作ることができれば、干渉と観測が同時に成立することになる。そしてそのときには、量子力学の枠組みの中で矛盾が起きる。
だが現実には、そのような構成は実現されていない。だから矛盾も現れていない。理論が矛盾を起こしていないのは、実際にそのような状態を作れていないからだという説明が成り立つ。
その意味では、「干渉と観測が共存するような状態は本質的に作れないのではないか」という推測も出てくる。理論の中に明確な禁止があるわけではないが、現時点では実際にも理論的にも、それを整合的に構成できていない。
次回に向けて──矛盾を本当に作るにはどうすればよいのか?
こうしてウィグナーの友人構成は、「観測者によって物理的記述がズレる」ことを示したが、そのズレを検証する構成は作れなかった。ならば、検証可能な形で矛盾を組み立てるにはどうすればいいのか?
次回扱うFRパラドックスは、まさにそれを目的として、ウィグナーの構成を拡張したものである。そこでは複数の観測者が互いの観測結果を推論し合い、その推論の整合性をチェックすることで、量子力学の予測と整合しない事態が理論的に導かれる。そして、それは実際に実験で検証可能な形にまで落とし込まれている。
「本当に観測されたはずの出来事」が、他の観測者から見ると「まだ観測されていなかった」ように振る舞う。その結果、複数の観測者の推論が正しければ、現実にはありえない結果が出てしまう。次回は、その構成を丁寧に見ていく。
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