第13回 なぜ未来を覚えていないのか──観測と時間の矢

量子力学

量子力学の基本方程式は、時間を逆向きにしても成り立つ。シュレディンガー方程式も、ディラック方程式も、時間の向きを変えても形を変えない。この意味では、量子力学は時間に対して対称的な理論である。

それにもかかわらず、我々が現実に経験する世界には「時間の矢」がある。過去は覚えているが、未来は覚えていない。出来事は未来に向かって起こる一方通行のように感じられ、観測もまたその一方向的な出来事として捉えられている。この「未来を思い出せない」という非対称性はどこから来るのか。

この問いに対して、量子力学のさまざまな解釈や拡張はそれぞれ異なる形で応じている。本稿では、「観測は時間の矢を生み出しているのか?」という問いを軸に、いくつかの立場が示す答えを比較していく。

時間の矢を含意する立場──観測とは記録が残ること

これまでこの連載でも扱ってきたように、「観測された」と言えるのは、その結果が何らかのかたちで記録として環境に残ったときだ。もし記録がまったく残らなければ、それは観測されたとは言えない。逆にいえば、観測とは記録であり、このとき時間の非対称性が現れている。

たとえば、コペンハーゲン解釈の標準的な理解では、観測によって波動関数が「収縮」する。この収縮は一方向的で、一度起きれば元に戻らない。未来に向かってのみ起こる非可逆な過程として描かれ、その構造が時間の矢を含意すると解釈される。

この見方を構造的に精密化したのが H. Dieter Zeh による「デコヒーレンス」の議論だ。量子系が環境と相互作用すると、状態の情報が環境へと広がっていく。その結果、重ね合わせの干渉が見えなくなり、波動関数がまるで収縮したかのように振る舞う。環境に広がった情報はもはや回収できず、それが記録となる。

Zeh は、この記録が一度形成されれば消えないという非可逆性に注目し、それこそが時間の矢の正体だと考えた。量子力学の基本方程式は時間に対して対称的でも、記録という構造が時間の一方向性を生み出しているという立場である。

時間対称な構成──未来からの影響を含めた決定論

観測が時間の非対称性を生むという見方に対して、「そもそも非対称なのは我々の視点だけだ」とする構成もある。

たとえば、Yakir Aharonov らが提唱する時間対称な量子力学(Two-State Vector Formalism)は、量子系の状態を過去と未来、両方の境界条件によって決定されるものとみなす。この見方では、未来の観測結果(終状態)もまた現在の状態に影響を与えており、我々が未来を「覚えていない」のは単にその情報にアクセスしていないだけだという。

一方、Gerard ‘t Hooft らによる超決定論の立場では、そもそもすべての出来事や選択、観測の結果までもが、初期状態によって完全に決定されているとされる。この構成でも、我々が未来を知らないのは主観的な制限によるに過ぎず、物理的には未来も過去も等しく固定されている。

どちらの立場も、観測によって突然未来が決まるという描像に疑問を投げかけ、波の広がりや収束を時間対称なものとして再記述しようとする。アハラノフの理論では、未来に向けて広がる波と過去に向けて広がる波を組み合わせることで、観測の非可逆性を理論から排除する。一方、超決定論は、量子力学の確率性自体が単なる見かけにすぎず、本質的にはすべてが一意に定まっていると考える。

観測において「波が突然収縮する」という従来の理解に対し、これらの構成では、観測点に向かって波が穏やかに収束していくとみなすことも可能になる。その意味では、観測の瞬間を特別視せず、量子の過程全体をなめらかにつなげる構図が与えられている。

このように未来を対等に扱う構成は、時間の矢そのものを本質的なものと見なさないという意味で、決定論的かつ時間対称な世界像を提示している。ただし、この枠組みはまだ十分に解釈的な段階にあり、記述としての整合性はあっても、実験的含意や理論的優位性が広く受け入れられているわけではない。

まとめ──「未来を覚えていない」は、どう位置づけられるか

それぞれの立場は、未来を覚えていない理由を異なる形で捉えている。

  • 観測や記録に非対称性を導入する立場では、未来がまだ起きておらず記録されていないから記憶できないとする。
  • 決定論的な時間対称構成では、未来の情報も現在の物理に含まれているが、それにアクセスしていないだけとする。

量子力学は、観測という操作を通じて、時間の非対称性を感じさせる構造を持っている。だがその構造をどう捉えるかによって、「未来を覚えていない理由」は変わる。矢が実在するのか、それとも主観的構成なのか。答えは、どこに物理の本質を置くかによって分かれてくる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました