東海地震は予知できるはずだった
1970年代、日本の地震学者の間で一つの仮説が注目された。東海地震は事前に予知できるのではないかという考えだ。
根拠はこうだ。東海地方の沖合では、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込んでいる。この沈み込み帯では過去に繰り返し巨大地震が起きてきた。1854年の安政東海地震、1944年の昭和東南海地震がその例だ。そして次の東海地震はいつ起きてもおかしくないという認識が広まっていた。
さらに重要だったのが、地震の前には地殻変動という前兆現象が現れるはずだという考えだ。プレートが固着している場所では、地震の前にひずみが蓄積され、地表にわずかな変形として現れる可能性がある。これを観測し続けることで、地震の前兆をつかめるはずだという期待があった。
1978年、大規模地震対策特別措置法が制定された。この法律は「東海地震は予知できる」という前提のもとで作られたものだ。翌1979年、気象庁に地震防災対策強化地域判定会(判定会)が発足し、東海地域の観測データの常時監視が始まった。異常が検知されれば判定会が召集され、地震予知情報が内閣総理大臣に報告されるという体制だ。
この体制は約40年にわたって維持された。しかし東海地震は起きなかった。
東日本大震災が転換点になった
2011年の東日本大震災は、日本の地震予測のあり方を根本から問い直すきっかけになった。
三陸沖はプレートの境界であり地震が多い地域として知られていた。しかし「M9クラスの地震は起きにくい」と評価されていた場所で、想定をはるかに超える巨大地震が起きた。第4回で見たように、岩手沖から茨城沖にかけて500km以上にわたる断層面が一気に破壊し、複数の震源域が連動したことも、浅部での大きなすべりが起きたことも、従来のモデルでは説明できなかった。
この経験から、「予知できる」という前提に立った東海地震対策の枠組みを見直す必要があるという議論が始まった。東海地震だけでなく、東南海地震、南海地震を含む南海トラフ全域を対象とした枠組みへの転換だ。
2017年、気象庁の調査部会は正直な結論を出した。「現時点において、地震の発生時期や場所・規模を確度高く予測する科学的に確立した手法はない」というものだ。約40年近く「予知できる」という前提で運用されてきた体制が、ここで公式に見直されたことになる。同年、判定会は南海トラフ沿いの地震に関する評価検討会と一体化し、対象を東海地域から南海トラフ全域に拡大した。
「予知」から「評価」へ
2019年、南海トラフ地震臨時情報の運用が始まった。これは従来の「予知」とは全く異なるものだ。
仕組みはこうだ。南海トラフの想定震源域内でM6.8以上の地震が起きた場合、または異常なゆっくりすべりが観測された場合に、気象庁が「臨時情報(調査中)」を発表する。その後、評価検討会が召集され、巨大地震が起きる可能性を評価した結果に応じて「巨大地震警戒」「巨大地震注意」「調査終了」のいずれかが発表される。
つまりこれは「地震がいつ起きるかを予知する」ものではなく、「地震が起きる可能性が平常時より高まっているかどうかを評価する」ものだ。「予知」から「評価」へのシフトだ。
しかしこの評価の科学的根拠にも問題がある。臨時情報の根拠となる統計は、1904年から2014年の世界の地震データをもとにしたものだが、この統計には海溝型だけでなく内陸地震などさまざまなメカニズムの地震が含まれている。名古屋大学の鷺谷教授は「学術論文としては通らないだろう」と指摘している。また観測精度が担保されるのは一般的に1970年代以降とされており、1904年からのデータの信頼性にも疑問がある。
さらに根本的な問題がある。臨時情報が発表されないまま大規模地震が発生する可能性があることは、気象庁自身が明記している。つまりこの制度は「臨時情報が出ていなければ安全」とは言えないという注意書きを必要とするものだ。
2024年8月、初めて臨時情報が発表された
2024年8月8日、宮崎県沖の日向灘でM7.1の地震が発生した。気象庁は運用開始以来初めて「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」を発表した。29都府県707市町村に対して防災対応の見直しが呼びかけられ、お盆休みと重なったこともあり、観光地でのキャンセルなど大きな社会的影響が出た。
1週間後、臨時情報は終了した。巨大地震は起きなかった。
この臨時情報に対して、地震学者からは複数の批判が出た。制度を作る際に参加した地震学者の一人は当時「この程度の情報を社会に出す意味が本当にあるのか」と語っていたことが報じられた。「外れても政府が責められないシステム」という批判もあった。
一方で政府の立場はこうだ。臨時情報は予知ではなく、可能性が高まったことを知らせるものだ。住民が防災対応を見直すきっかけとして意味があるというものだ。
どちらの立場にも一定の理がある。しかし根本的な問いは残る。「可能性が高まった」という情報を、どの程度の根拠で、どのように社会に伝えるべきか。これは科学の問いであると同時に、社会の問いでもある。
日本の地震予測は今どこにいるのか
「東海地震は予知できる」という前提から始まった日本の地震予測の取り組みは、40年以上の歳月をかけて「予知」から「評価」へとシフトした。しかしその「評価」の科学的根拠もまだ十分ではない。
気象庁自身が認めているように、地震の発生時期・場所・規模を確度高く予測する科学的に確立した手法は現時点では存在しない。南海トラフ地震の発生確率「今後30年以内に70〜80%」という数字も、過去の地震の繰り返し間隔から算出したものであり、その根拠の妥当性について「科学的に妥当とは言えない」という論文も発表されている。
このシリーズを通じて見てきたように、プレートテクトニクスは地震が起きやすい場所を説明できても、いつどこで起きるかは説明できない。ひずみがどこに蓄積しているかを正確に把握することは現在の観測技術では極めて難しい。内陸地震においてはひずみが蓄積しているかどうか自体がわからない場合もある。
日本の地震予測の取り組みは、この困難な問いに対して科学と社会が向き合い続けてきた歴史でもある。「予知できる」という期待から出発し、現実の複雑さと向き合いながら、少しずつ正直な評価へと向かっている。その途中に今いる。

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